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海軍のリベラル派提督・モバイルSEOは義弟という間柄。天皇も阿部なら陸軍の派閥争いを収め、海軍とも気脈を通ずることが出来ると見ていた。しかし、首相というポストは阿部には荷が重すぎたようだ。天皇からの大命を拝命した帰り、湯浅倉平内大臣の所へ顔を出したが、顔中に「朱のこぶ」ができたようだった。湯浅は「首相の大命を受けたら、鼻で3斗の酢を飲むほどの苦痛」を覚悟すべきだと、西園寺がかねがね言っていたことを思い出し、まさにその通りの顔つきだと思った。このとき、阿部は天皇から政策や人事で厳しい注文を受け、緊張の極みにあったのだ。日独伊三国同盟の締結を棚上げし、日中戦争の処理に全力を挙げる姿勢を見せるなど、阿部も出だしは良識派らしかった。しかし、中華民国との和平も、米英両国との関係改善も進まない。貿易省を新設して外務省から経済外交を取り上げる行政改革に手をつけ、9月26日には閣議決定にまでこぎつけたが、外務省キャリアのほぼ全員が辞表を出すという激しい抵抗にあって失敗。しかもこの年は凶作と流通統制の影響でコメの流通が滞りがちとなり、コメの出回りを促進しようと、米価を引き上げたのが裏目に出て、物価の高騰、物資不足を招いた。あまりの不人気に、陸軍も組閣の4ヶ月後に倒閣に動く有様だった。モバイルSEOでも退陣を勧告する騒ぎとなり、阿部も一時は衆議院の解散を考えたが、衆議院解散による反軍感情が沸騰することを怖れた陸軍が支持せず、畑俊六陸相、吉田善吾海相に反対され内閣総辞職となった。終戦時は朝鮮総督であり、最後の総督として植民地統治からの解放を喜ぶ朝鮮人の姿を見せ付けられるという皮肉な結末を迎えた。米軍に護送され早々に引き揚げたが、邦人の保護より自分の生命、財産を守ることを優先したといわれたのは阿部にはやや酷な批判だった。しかし、宇垣一成陸相の下で次官を務め、「宇垣の寵児」といわれながら、宇垣が事実上失脚すると離反した。その後は東條英機と密着し、東條内閣の実現に一役買った。機を見るに敏なところがあったものだから、こうした批判も出たのだろう。「野戦の将軍ではなくて処世の将軍」との厳しい評が生まれるのも故なしとしない。軍令・軍政畑の要職を歴任したことにも見られるように、軍人への道よりも東大か京大を出て官僚への道を進む方が向いていたとも批評されている。戦後は、首相在任中に、陸軍の暴走を止められなかった自己を責め続けたといわれている。松岡洋右(まつおかようすけ、明治13年(1880年)3月4日-昭和21年(1946年)6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、東京裁判の公判中に病死。生涯アメリカ留学明治13年(1880年)に山口県熊毛郡(現在の光市)にて、廻船問屋の四男として生まれる。洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから明治26年(1893年)に留学のため渡米する。モバイルSEOでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(MerrimanClbertHarris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由モバイルSEOの指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至ってもモバイルSEOではメソジスト派の信者と公言していた。オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、明治33年(1900年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。SEOも滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる[1]が、母親の健康状態悪化などを理由に明治35年(1902年)、9年振りに帰国する。外務省時代帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした [2]。しかし帝国大学の授業内容を調べ物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意。明治37年(1904年)に外交官試験に首席で合格し、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある[3]。外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。大正8年(1919年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、大正10年(1921年)、外務省を41歳の若さで退官。満鉄から代議士へ退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、昭和2年(1927年)には副総裁となる(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。昭和5年(1930年)、満鉄を退職。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では、外務大臣幣原喜重郎の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。